川崎フットボールアディクト創刊のお知らせ

ご存知の方も多いかとは思いますが、JsGOALが1月末をもって更新を終了し、新サイトの方に統合される事となりました。
Jリーグの取材情報を記事として公開する場として、本当にお世話になってきました。

JsGOALには感謝の気持ちしか無いのですが、そのJsGOALもホームゲームのみの取り扱いということで情報の半分は出せないという状況があったため前から川崎フロンターレ専用のニュースサイトを立ち上げようとは考えていました。

今回、いろんなタイミングが一致して、Webマガジンという形で、サイトを立ち上げる事になりました。声をかけていただき、クラブ側にも理解していただき了解をもらえました。掛け持ちもOKだと言われていたJsGOALの統合による運用の停止は想定外でしたが、そんな動きの中でできたのが川崎フットボールアディクトというサイトになります。

加藤雅也:夭逝

はじまり
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唐突な知らせ
人間、驚きに接すると眠気も吹っ飛ぶものである。
そういう情報は知っていたが、まさか自分がそのリアクションをするとは思わなかった。着信履歴に残っていた時刻は8月3日午前9時1分。前日のハードなスケジュールの影響で寝ぼけていた意識が、一瞬でクリアになった。
電話の主は、冷静な口調で仲間の死を告げていた。

99年最終戦のまーくん
99年最終戦の試合前のまーくん。

出会い

はじめて会った日の事は覚えていないが、99年の大分でのホームゲームだった事は間違いない。当時まだ3000人入れば御の字だった大分のホームゲームで、声を出して太鼓を叩いて声援を送る人数は50人に満たなかった。そういう環境の中で、濃いところの人間とコンタクトをとり続けていけば、彼に行き当たるのはそう難しい事ではなかった。
開門前の列が100人に満たない市営陸上競技場の照明灯の台座の所に腰掛けて、話をしてた事を思い出す。


考える時間
電話の主は、雅也が東京の病院で亡くなったと教えてくれた。前日の取材が長引き、終電に乗り遅れたぼくは熊本の荒尾という町にいた。予定通り博多へ移動できていれば、電話をもらった時点で福岡空港へ向かったはずだ。
なぜならば、荒尾で電話をもらった直後から、即座に東京に帰る事を考えたからだ。
今から東京に帰れば病院で彼に会えるはず。
そんな事を考えながら乗り込んだ博多への特急電車の中で、1人になったとたんに涙が出てきた。この状況で1人でいるのは精神的に厳しかった。
電話をもらった直後から考えていた、東京に一刻も早く帰ろうという思いは、博多への1時間あまりの1人の時間の間に大分へ帰るべきだと思い直すようになる。
何もかもが整ったこの状況は偶然ではないはず。kaz家からも「帰るなら帰ってこいや」という話をしてもらっており、大分へ帰る事にした。
大分でMさんと合流して知り合いに訃報を連絡し、ちょうど買おうと思っていた数珠を仏具屋で購入。その後kaz家へ。1人では精神的にやばい状況だったが、そんな事お構いなしの3歳児の相手をすることで気が紛れたのは事実である。


職人魂
アジアカップ準決勝を見終えたくらいのタイミングで、不在着信のT局のSくんから折り返しの電話が入る。
「もしかして、という気はしていたんですが、番組の本番前にその話を聞いてしまったら原稿を読んでいる最中に泣いてしまいそうだったので…」
と彼は話していた。声にはハリがなく、ショックの大きさが伺えた。
3日の夜に石崎さんから電話が入る。人づてに今回の件を聞いたんだそうだ。大分で2年半を過ごした石崎さんにとってもゴール裏サポーターの代表の死は大きな意味があった。
その電話で、弔電と花の手配の打ち合わせをした。
その後某国営放送の元大分担当者で、現在は関東の支局に勤務するTさんから着電。直接話をするのは去年のアウェイでの鹿島戦以来だろうか。葬儀当日には、弔電が届けられていた。




通夜
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大きな規模の祭壇
     立派に飾り付けられた祭壇。
通夜当日
通夜当日。
葬儀場へ行くと、すでに多くの顔見知りが集まってたが、中にはTORCIDAの代表も含めたメンバーも。少なくとも、サポーターグループの幹部同士には感情的なしこりは残っていない。
祭壇は立派な飾りが施されていて、石崎さんの花も届けられていた。
通夜という事で多くの参列者を集めたが、家族の次に、多くの時間を過ごしていたサポーター仲間の表情は悲痛なものだった。



花
石崎さんの花と並んで水沼さんの花が。水沼さんは、大分がまだ市営陸上競技場で試合をしていた頃から雅也の事を取材していた。
一般の参列者の方々がはけた後、喪主のお父さんがサポーターだけを呼んでくれて顔を見せてくれた。この時に大きな「マサヤ」コールを送る。
式を終えて入り口で立っていたら某国営放送のSくんが姿を見せる。Nさんもいた。原稿を読む時に泣きそうで確かめられなかったと電話してきたSくんも。
さらに某国営放送のNくんも姿を現す。大分のマスコミのスポーツ担当者は総動員の様相を呈してきた。

ありがとう
「ありがとう」のメッセージが入ったユニフォーム。写真は、J2優勝を決めた2002年の川崎戦のときのものらしい。

涙腺崩壊

通夜には大分トリニータを代表して3名の選手が参列した。三木、瀬戸、そしてプライベートでも親交のあった梅田だ。彼らは選手会で集めた香典を持ってきており、さらに受付でご遺族にと出したのが、このユニフォームだった。
そのユニフォームを受け取ったMさんは、即座に涙腺を破壊され、巨体をふるわせて泣いたという。
ユニフォームには
ありがとう
という言葉が入っていた。
サポーターと選手の関係というのはよくわからない所がある。インタビューでサポーターに感謝の言葉を口にする選手は多いが、それが本心からの言葉なのかはわからない。また、サポーターたちも選手たちに心の底からの感謝の気持ちを求めていたりはしていなかったりする。
男の世界にありがちな、お互いにドライな関係で満足しているのである。ところがこのメッセージは、直接的にウエットな領域の感情を刺激した。経験上、涙腺が破壊されるのも納得できる。

打ち合わせ
打ち合わせ。

打ち合わせ

通夜を終えてとある居酒屋へ。彼をどういう形で送れるのか、打ち合わせる。
仕事の都合でkazくんが送れて参加。この席で、見送りの時に歌う歌詞や、斎場にお願いするコースなどがまとまった。




告別式
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告別式当日
      告別式当日。
告別式
ご遺族、斎場との打ち合わせの結果、告別式を終えた後、火葬場に向かう途中にビッグアイに寄ってもらえる事になっていた。彼が愛したチームのホームスタジアムの前で、彼とともに戦った仲間たちと彼を送り出せる事となった。
そんな話をしていると、ふと霊柩車の運転手さんが会話に入ってきた。
彼は一切の私心を排除した口調で
「私はゆっくりと走りますから、みなさんはどんどん追い越していってください」
と言ってくれた。
「よりよい形で死者を送り出したい」という彼の職人としての気持ちがヒシヒシと伝わってきた。雅也はいろんな立場の人たちの、心からの追悼の気持ちを受けていた。
入り口に立っていたら、某国営放送の前大分担当のNさんが姿を現す。すでに大分からは異動になっているのだが、彼にお世話になったという事でわざわざ休暇を取って来たのだという。
このタイミングで、某TV局の知り合いから電話が入る。「ビッグアイでの追悼の場面を取材したいのだが」との事だった。
本来はそういう問い合わせに答える立場にはないのだが、サポーターの気持ちを伝えたくて、詳しい情報を伝えた。取材クルーは直接ビッグアイに向かうそうだ。
同じくらいのタイミングで、同じTV局のYアナから着電。今日になってようやく雅也の死を知ったという。これから会議があってどうしても式には出席できないという内容だった。それはそれで仕方ない。連絡すれば良かったとしばし後悔。
Nさんと席に着くと、すぐそばにO局のNさんが座る。神妙な顔つきだ。

涙のお別れ
涙のお別れ。

男前

告別式で一番男前だったのは、友人のIさんだろう。友人を代表して読み上げた弔辞はすばらしかった。自分が同じ立場に立ったら確実に泣き崩れるという場面で、こみ上げてくる感情を押し殺し立派に大役を全うしていた。ただ、それでも時折漏れる涙声が、感情を揺さぶった。
式の前に見た時には平静を保っていたように見えた奥さんは、焼香の時に見ると泣き崩れていた。たぶん、自分の夫に対して尽くされる、出席者が見せた「礼」に心が揺さぶられたんだろうと思う。目の前で自分の夫のために涙を流す人を見て、冷静でいられるほど人は強くない。
告別式が終わったタイミングでサポーターが呼ばれた。ご遺族のみなさんとともに花を棺に入れさせてくれるという。ご家族の厚意に感謝しつつ石崎さんが送った花から花を一輪手向ける。
改めて彼の顔をじっくり見せてもらったが、前日ちらっと見た時とは全く違う表情だった。穏やかな顔をしているとばかり思っていたが、実際は苦しげな表情を浮かべ、口のまわりには酸素マスクの後がくっきりと残っていた。
今思い出そうとしても彼の苦しげな表情は思い出せない。苦しげな表情をしていたという事は覚えているのだが、ではどんな顔だったのかというと、穏やかな顔しか浮かんでこないのだ。もちろん無理に思い出す必要はないから、それはそれでいいと思っている。

ビッグアイへ

霊柩車に乗せられる時、まわりを取り囲んだ数十人のサポーターが大声でマサヤコールを送り、その声に送られて彼は斎場を後にした。
即座に数十人のサポーターは自分の車を目指して走り出した。雅也がビッグアイにつくまでに追いつかなければならない。
高速で追いついた雅也の車は、運転手さんの言葉通りゆっくりと進んでいた。付き従った何台もの車は親族のものだ。そうやってビッグアイにたどり着くとすでに多くの仲間が集まっているところだった。
O局のMさんもすでにそこにいた。
簡単に言葉を交わしたが、神妙な表情が印象的だった。




ビッグアイ葬
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ビッグアイ葬
ビッグアイで送り出す。持っているダンマクは雅也が作ったものだ。この日は青色が印象的だった。

原色のビッグアイ

今思えば、この日の気候は特異だったような気がする。
空から降り注ぐ日差しは強烈で、その日差しに照らされた地上のもの全てが、自分の持つ色を搾り取られるように、くっきりと自身の色彩を放出していた。
それでいて空の青さは優しさを帯びていて、思い出すその風景の半分がその青色で埋め尽くされていた。
色彩を深く掘り起こす強烈な日差しの中にあって、空気は決して重たくなかった。撫でるように通り過ぎていく風が、厳しい日差しを和らげていたのかもしれない。
照りつける太陽の下、ぼくらが見つめる視線の先には、無味乾燥の道路が見えていた。深い色彩と強烈な日差し。
静寂が陽炎の中で揺れていた。
kaz家の車がビッグアイに着いた時とほぼ同じタイミングで、坂の下から雅也を乗せた車がその姿を現した。

サポーターらしく最後は歌で見送る
サポーターらしく最後は歌で見送る。

お別れコール

事前に、歌詞が印刷された紙が配られていた。
俺たちと共に闘った仲間
ずっと忘れない
お前の心 お前の魂
俺たちと共に 明日へ
(翼をくださいのメロディー)
歌い出しで、突然涙腺が崩壊した。
顔を覆ってしばらく泣いた。
なんとか声を絞り出していたが、たぶんまともな声にはなっていなかった。もちろん音程なんてとんでもない、という状況だった。

霊柩車の中から軽く頭を下げる純子さん
霊柩車の中から軽く頭を下げる純子さん。

さらにどん

一通り歌い終わったところで「マサヤ」コール。そしてそこで終わらないのが大分サポーター。
すぐに「ジュンコ」コールが始まる。ここでまた涙腺崩壊。自分でもよくわからない。さらに続けて「アオト」コール。
一連の儀式を終えると、喪主のお父さんが車の前に立った。そして心の底からの「ありがとう」の言葉と共に頭を下げた。
お父さんは告別式の時に碧人について言及していた。
「碧人は成人するまで責任を持って育てます」
改めてその言葉を聞いて、なんだか安心した。



加藤雅也追悼試合
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J1-2ndステージ開幕戦 大分vs磐田

しばらく悩んだのだが、この試合を自分が取材しないで誰がやるのか、という気持ちで取材を志願した。完全な個人的理由のため、金銭的な迷惑は一切かけないという前提でお願いした。
もちろん編集部に迷惑はかけられないので、J2の取材に穴が開くような事はできない。いろんな可能性を追求したが、翌日の川崎vs福岡の取材に支障が出ない移動ができる事を確認しての事だ。
それだけの事をしてでも取材したかったんだ、という思いは半分だけは通じた。しかし、残りの半分はわかってもらえなかった。大分が強くなって、自分も強く成らなきゃダメだという事だろうね。

試合前

前日に大分入りしたぼくは、11時過ぎにkaz家の奥さんにピックアップしてもらった。
車中で奥さんからkazくんの話を聞く。試合は19時から。どうしても仕事をはずせなかったkazくんは当初この日の参戦を断念していたのだが、ハッピを取りに行った直樹くんが「前半だけでも行けるんじゃないんですか」とカマをかけたらしい。そんな直樹くんに対して奥さんも特に反対せず。結局前半が終わった直後に出れば間に合うだろう、という事でその場で参戦が決まったとの事。まあ、他の試合であればそんな無理は言わないのだけど、この試合だけは意味が違うからね。


似顔絵の入ったゲーフラ
似顔絵の入ったゲーフラ。
ゲーフラ
似顔絵の入ったゲーフラにみんなで寄せ書きしているところ。多少デフォルメされて可愛くなっているのがシャクである(笑)。
ちなみにこの写真も入稿しましたが、掲載はされませんでした。

ダンマク制作中
ダンマク制作中。


ダンマク職人

大分サポーターのスプレーの技術はかなりのものがある。どうやらその筋でブイブイ言わせてきたらしい。これはビッグアイで雅也を送り出した時に歌った歌詞です。


残されたもの
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寄せ書き
寄せ書き。
たくさんの人の弔意
寄せ書きをお願いすると、ゴール裏の住人は次々にペンを手に言葉を書き込んでいった。
中央に立てかけられた紙には、雅也の死について書かれている。この一角を訪れてはじめて「えっ、あの方亡くなったの?」とショックを受ける人もいた。
考えてみれば、今年に入ってゴール裏から姿を消していた訳で、多くの人はその理由をこの日理解する事となった。

いつもの場所に置かれたタイコと花束
いつもの場所に置かれたタイコと花束。

いつもの場所に

いつも雅也がいた場所にタイコとレプリカが飾られた。花は生前仲の良かった女の子たちが持ってきたものだ。
タイコ打ちだった雅也は、後輩のタイコにいつも注文をつけていたという。
いつもダメだしされていたというSくんは「闘病中に観戦に来た新潟戦のタイコをほめてもらった」と懐かしがったが、「いつか抜いてやろうと思っていたのに結局追いつけないまま向こうに逝ってしまった。これで一生追いつけないですよ」と肩を落とした。
今でも試合前のゴール裏にいると、フラフラっと姿を現しそうだと誰もが口をそろえる。まだ死そのものが信じられないというSくんは「突然電話がかかってきていつものあの声で『もっとちゃんとやらんかえ』って言われるんじゃないかって思うんですよね」と話していた。
この日。ご遺族がはじめてゴール裏で観戦した。
その話を聞いた時、ふと思った。碧人がお父さんが立っていた場所に立った時何を思うのか。真っ青に染まったゴール裏を見上げた時、どんな事が頭に浮かぶのか。そんな話をしていたら、Tさんが「泣きそうや」と逃げ出した。
ピッチ内練習が始まり選手たちが姿を現す。
その選手の中の梅田と瀬戸の手には花束があった。彼らはその花束を手に、ゴール裏の前までやってきて手向けた。
梅田は試合前に「勝ちたいから気負わずに行きます」と話していた。もちろん雅也に勝利を捧げたいという思いからだ。
試合はサポーターの希望を乗せて先制するという展開に持ち込むが、残念な事にリードを守れず引き分けに終わってしまった。勝ちたかったという梅田が試合後に話してくれた言葉が印象的だった


Q:加藤くんの死については?いい試合をさせてくれたと思います。
Q:選手の気持ちを盛り上げたと言う意味で?
そうですね。勝ちたかった、というよりも「そんなに甘くないよ」って向こうで言ってるような気がします。彼を満足させられるよう、次からもがんばります
雅也の件についてぼくは全く伝えられなかったのだが、一つだけ、サッカーダイジェストのマッチレポートが言及している。気になる人は4004.8.31付けのNo.743号のp.113を参照してみてください。
そんな訳で、担当者のIさんにサポーターからのお礼の言葉を伝えると「江藤さんがそういう話をしているのを聞けたので」と言ってくれた。大分に帰ったのは全く無意味ではなかったようだ。



加藤雅也追悼試合
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J1-2ndステージ第2節 横浜FMvs大分

前回のホームでの磐田戦に引き続き、2ndステージのアウェイ初戦となるこの横浜FM戦は追悼試合として位置づけられていた。ただ、この試合を取材できるとは考えていなかった。そんな中、編集部から電話が入る。
「次の試合は水戸でいい?」
特に断る理由もない。横浜国際に行けないのであればどこに行っても同じである。イヤだといっても変わる訳でもないし、そもそも指示された取材地を断った事はない。自分の希望を伝える事はあったが、それもJ2を優先しての事だったから、J1とJ2の試合日が重複しているこの節に横浜に行けないのは確定していた。
編集部は恐縮しているような口ぶりだが、水戸も行けばおもしろいので気持ちをそちらに向かって盛り上げていった。
状況が突然変わった。
首都圏のライターさんが軒並みアテネに出ていて、J1を書ける人がいないとの事。横浜に行ける人はいないか、と電話が来た。表にも書いたが、水戸の対戦相手がたまたま鳥栖だった事で大どんでん返しが起きた。
奇跡的な事だと思った。奇跡ってヤツは本当にこの世に存在するんだと思った。

ピッチ遠すぎ
お蔵入りとなったピッチ遠すぎダンマク。

お蔵入り

横浜FMサポーターと大分のコアサポは、直接面識はないという。それでもビッグアイに掲げられた「大分遠すぎ」のダンマクに対して「けが人多すぎ」というダンマクを掲げて以来、何かやらなきゃ、という思いがあったりするという。
そんな訳で、今回大分サポーターは「横国ピッチ遠すぎ」というダンマクを用意していた。追悼試合と位置づけられたこの試合には、掲示するダンマクの数を限定する事が試合前に告げられていた。そんな訳でこのダンマクはお蔵入りに。
ちなみにネット上で騒がれた「火をつけてやる」発言もあって「大分遠すぎ」ダンマクを微妙に修正した「大分すき」というダンマクが大分ゴール裏に用意されていたという。しかし担当者が事情を話すとえらい恐縮して外してくれたとの事。こういう話を聞くと、ホッとする。

雅也が作ったダンマクと共に
雅也が作ったダンマクと共に。

イメージ

「もう、イメージはできあがってるんだよね。梅田が目の前でゴールを決めて、そして空を指さすんだよ。泣くね」
Mさんの言葉を聞いて、フォエが亡くなった時のカメルーン代表や、ネルソン吉村さんが亡くなられた直後のC大阪を思い出した。確かにその光景を見たいと思った。
現実は、そう甘くはなかった。


後日談
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エピローグ

加藤家は雅也と大分トリニータとの深く強い絆を実感しこれからのホームゲームにおいて20席の客席を継続して購入。それを「雅也シート」として子供たちに提供するという。
連絡が回らずに、葬儀に出席できなかったYくんは「お盆になにかあるのであればぜひ」と話していたが、加藤家はまだ日が浅いという事でお盆の行事は行わない事になったという。ただし、自宅まで来られるのであれば、ぜひ仏壇に手を合わせてください、という話を伝えた。
Yくんは「それで十分です」と言っていた。
ビッグアイでの別れの儀式を取材していたO局が、ローカルニュースで雅也の死を関連付けて磐田戦を伝えたという。サポーターが特別な思いで試合に臨んでいた事。ビッグアイでの儀式。そして涙。
そういう様子が、ちゃんと伝えられたという。もちろん相手は磐田でやりがいのある相手だが、その試合の裏に込められた特別な思いが十分に伝わる映像だったという。心からの感謝を述べたいと思う。
27日の夜。突然T局のSくんから電話が入る。溝畑さんの社長就任会見に出たという。ニュースでは伝えられなかったが、その溝畑さんの口から雅也の話が出た事を教えてくれた。ただそれを伝えるためだけに電話してくれた。

伝説
伝説。

伝説に

雅也は悪性リンパ腫だった。大分でも治療を受けていたが、臍帯血移植を受ける事になったという。その治療のために東京に移送されて移植を待つ状態だった。
かっこつけしぃだった雅也は、Mさんに「絶対に治るからそれまでは入院の事は言わないでくれ」と話していたという。
いらんかっこつけやがって。
4月にマリノス戦を取材しに帰った時に、たまたま、病状が安定した雅也の病室を訪ねる機会があった。顔を見せると、照れくさそうな笑顔になった。ベッドに寝ている自分の姿を見られるのがイヤだったのだろう。もちろん絶対に治るという自信がその心情の根底にあるのは間違いない。
悪性リンパ腫というのは、わりと完治しやすい病気だという。そういう情報を雅也も知っていたのだろう。絶対に治るんだという言葉は、病気の性質を理解しての事だったはず。
ただ、雅也が闘った相手はどうしようもなく強かった。
酸素マスクをつけながら病気と闘っていた雅也は、適合する臍帯血が見つかり、移植手術をするまさにその当日に、息を引き取った。
梅田が絞り出すようにつぶやく言葉が忘れられない。
「もうちょっと、なにかうまくできなかったんですかね」
もちろんご遺族が何もしなかったのではないかと批判している訳ではない。それは親友を失った友の、心からの叫びだった。
「なんか、信じられないんですよね。まだ全然実感がなくて、ふっと姿を現しそうで。だから、なんとかならなかったのかなって、思うんですよね」
死者が一番怖がるのは忘れられてしまう事。だから、それくらいがちょうどいいのかもしれない。ふと気がつくと、そこにいるような、そんな感覚。
雅也はみんなの心の中で生きていく。
そう、大分トリニータと、共に。




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