川崎フットボールアディクト創刊のお知らせ

ご存知の方も多いかとは思いますが、JsGOALが1月末をもって更新を終了し、新サイトの方に統合される事となりました。
Jリーグの取材情報を記事として公開する場として、本当にお世話になってきました。

JsGOALには感謝の気持ちしか無いのですが、そのJsGOALもホームゲームのみの取り扱いということで情報の半分は出せないという状況があったため前から川崎フロンターレ専用のニュースサイトを立ち上げようとは考えていました。

今回、いろんなタイミングが一致して、Webマガジンという形で、サイトを立ち上げる事になりました。声をかけていただき、クラブ側にも理解していただき了解をもらえました。掛け持ちもOKだと言われていたJsGOALの統合による運用の停止は想定外でしたが、そんな動きの中でできたのが川崎フットボールアディクトというサイトになります。

ルールとマナー

ルールとマナーというのは一見すると似ているのだが、実は違うものである。それぞれを日本語に置き換えると、ルールは規則であり、マナーは常識だったり良識だったりということになる。

規則は、何らかの枠組みをある自由な状態の中に適用することで、人間の行動範囲を制限するもの。
常識だったり良識だったりというのは、人間社会の中で、それぞれの社会が作り上げていく、明文化されることのないごく緩やかな規則である。

で、先日問題が起きた。神奈川県の神田高校の入試時の問題である。

ここの校長先生が、入試時の服装を見て問題がありそうな生徒の入学を前校長が持つ「常識や良識」の範囲で制限した。
なぜかその事実が表面化。
校長は「規則」にない選抜基準で合格圏内の生徒を落としたとして、批判され、校長職を解かれ、更迭された。

そこで問題。この問題は何が問題なのかと。

あるブログで県教委の対応がおかしいと書いたところ通りすがりの、いわゆる「規則原理主義者」さんからクレームの書き込みが。
原理主義者さんは、「入試の基準として明記されていない」ことを理由に、身なりを理由にした不合格の決定はおかしいと。
それに対し、義務教育ではない高校の入学生を選ぶ基準は高校側に一任されているはずだとブログの著者。

最初のやりとりだけ読んで、最後まで追いかけなかったので、ブログの著者さんと原理主義者さんとの結末がどうなったかはわからないんですが一般的にこの問題、どちらの見方も正しいという事になると思っている。

つまり前校長の対応を批判する人は、入試の点数以外の基準が持ち込まれ、それが許された場合、今後全国に校長や教職員の裁量による入学基準の変動が許されかねず、公正な入試の担保に支障を来す可能性が出てくる、という懸念を持っているわけである。

もちろん、前校長の信念に基づく判断は全く間違っていないという立場の人も出てくる。
ただ、前校長の信念を指示する人の立場は弱い。
なぜならば、前校長の「信念」という数値化できないもの、それは良識という言葉で表現できるものなのだが、それが前校長支持派の根拠になるからである。

前述したが、前校長を支持ずる場合、前校長がどれだけ公正な信念を貫き続けたとしても、その信念が今後、入試の点数以外の入学基準が明文化されない形で全国に広がった場合前校長が彼の思考の中で作り上げてきた「公正な信念に基づく入試基準」までは広げられないのである。なぜならば前校長の信念を数値化し、基準として全国に広めることができないからである。

つまり規則原理主義者は、誰がみても一目瞭然の、全国一律の基準があるべきだと主張しているわけである。そしてそれは選択側=体制側=権力者に対する性悪説に基づいていると考えると理解しやすい。権力者を(は)放置するとろくな事をしないぞ、とそう考えている訳だ。

対する前校長支持派は、体制側に対する性善説に基づいているのである。良識を持つ権力者には、一定の裁量権を認めていいと。

主に戦後の教育は、権力の暴走という虚構(なぜ虚構なのかは後日、書くかな?)を非常に過大に評価しているわけだけど、それが今回の入試問題を大きくした理由の一つなのかなと思っている。

この問題を収め所があるとすれば、それは選択側=体制側=権力側の権力を、ルールという名の規則で縛ればいいのである。そしてそれは入試の選択基準の中に、服装の規程を一文入れるだけで済む。要するに権力が暴走する可能性を事前に防げばいいわけだ。

前校長が選択する側にいる限り、そしてその前校長の信念を知る限り暴走はあり得ないと思うのだが、その信念が拡散したときに、服装の条件を規程化しておけば、権力側の暴走はある程度は防げるものと期待される、と原理主義者側は考えているのである。

権力を「悪」と見なす視点も、ある程度の範囲では必要だと思う。ただ、何もかも権力を悪として見下す考え方には同調できない。これだけ教育問題に真摯に取り組み、実際に一つの高校を更正させてきた前校長を解任、更迭した人間は、前校長の良識を信じられなかった訳で、もちろんそれは前校長の良識を数値化できないからなのだが、だったらしかるべき立場の人が言葉で前校長を守ってほしかった。前校長も自らの言葉でその信念を全国の教育者や子を持つ親、国民に示してほしかった。

セント・オブ・ウーマン」という映画があるが、この映画のクライマックスの場面で、言葉の力をまざまざと見せつけられるシーンがある。鳥肌ものである。

小泉純一郎氏がすごかったのは、言葉に力があったからだろうと思っている。彼を悪魔化しようと様々な工作がなされたが、彼の言葉の力とそれによって伝えられた信念は、自民党を歴史的な勝利へと導いた。彼の全ての政策に賛同するわけではないが、彼のやってのけたあの大勝という偉業は歴史に残るものだろうと思う。

日本人は言い訳を好まない民族である。
政治家が批判に対し対抗すると「大人げない」とかという反応が返ってくる。
子供が自分を正当化しようとすると「理屈っぽい」という反応を示してしまう。

人間がここまでの進化を遂げてきた理由の一つは、人類が言語能力を手に入れたからである。言葉は自らの意志を伝え、相手の意見を聞き入れるための、そして経験を後世に伝えるための非常に重要なツールである。ところが驚くほどに、日本民族は言葉をないがしろにしている。

あうんの呼吸という伝統が息づくこの国には言葉は、日常生活に添えられる程度のものなのかもしれない。ただ、本音と建て前を使い分けられる二重人格民族である日本民族ほど多面性を使いこなせる民族はいないとも思っている。

自分がわからないことがあれば何度でも聞けばいい。だけどそれで空気がおかしくなれば、その場の空気を読めばいい。

正義とはかけ離れた批判を受ければ、言い返せばいい。それが言い訳と取られても、そうすべきだ。そこに信念があれば必ず受け止めてもらえるはずである。

長くなったが、日本人は責任を取りたがらないから、規則という名の保証がほしい民族であると思っている。だからこの前校長の悲劇を繰り返さないためにもぜひ、規則を作ってほしいと思う。留保事項として入れておけばいいだけの話である。入試にまともな格好をしていけない人間が、社会性を要求される学校という場で、個性として正当化されてきたのであろう行き過ぎた個人主義を変えられるわけなど無いのである。

ということで長くなったが、前校長が解任された神田高校野球部のノンフィクションがよかったです。たぶんそのうち消されますので視聴はお早めに。(#注 youtubeでは削除済みのためリンクを外しています)

ザ・ノンフィクション 負けんじゃねえ~神田高校に起こった奇跡 1/6

ザ・ノンフィクション 負けんじゃねぇ~神田高校に起こった奇跡 2/6

ザ・ノンフィクション 負けんじゃねえ~神田高校に起こった奇跡 3/6

ザ・ノンフィクション 負けんじゃねえ~神田高校に起こった奇跡 4/6

ザ・ノンフィクション 負けんじゃねえ~神田高校に起こった奇跡 5/6

ザ・ノンフィクション 負けんじゃねえ~神田高校に起こった奇跡 6/6
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