たとえば、国のためにと宣言してオマーン代表監督に就任したアザーニ監督。彼はその仕事如何では国民からのすさまじいバッシングを受ける可能性があった。それでも、バカンスを切り上げて、国の一大事を救うべく立ち上がった。それだけの覚悟を持つ人がどれだけ日本国に残っているのだろうか。
日本代表の岡田監督からも孤独が漂ってきているように感じるが、それが岡田監督に特有ではないという意味において、もしかしたらプロサッカー監督の宿痾なのかもしれない。

岡田監督は理想とする到達点を想定し、そこにたどり着くためにどういうステップを踏むべきかを入念に追いかけており、それを練習に落とし込んでいる。指導者としてしっかりとした練習を行えていると思う。
そしてそうした彼の真意が報道陣に伝わっていないという点で、ある種の悲劇が起きているのだろうと思う。
日本人は、同胞である日本人を一段低く見がちである。権威を否定してきた戦後教育の弊害なのだが、そうした社会的風潮で審判問題も説明できると思っている。論文を書いたら普通に学位がもらえるくらいのテーマだろうと思う。ここでは書かない、書けないけど。
非礼な仕打ちを受けたオマーン戦の前日会見に臨む岡田監督は、毅然としていた。そして、寂しげに見えた。与えられた場所。取り囲む報道陣の疑心暗鬼。同胞が同胞のために戦っている。もう少し、どうにかならないものかと思ってしまった。
そんなオマーンからタイへ。イスラム教の教義が広く浸透している社会から、混沌が渦巻く新興国へ。このギャップは何なのだろうか。
監督業と、タイの資本主義がなぜだか頭の中でシンクロしてしまった。海外での生活は、内省を深めるいい機会でもある。