
14年前。居候していた四谷の、寝るだけのスペースしかない部屋から引っ越してきた時の思い出がよみがえってきた。とにかく東京での一人暮らしがうれしかった。6畳と3畳ほどの台所が付いていてそれなりに広い部屋だった。まだ荷物も少なくて、のびのびと使えた。
家賃も安く、大家さんもいい方で(フリーになりたてで収入が無い時期に、家賃を半年滞納しても待ってくれた。もちろん大家さんにしてみれば迷惑極まりない住人だっただろうけど)、当面引っ越すつもりはなかった。

そんな中で引っ越しが14日になったのは本当に偶然だった。アメリカに行く気満々だったので帰国便のことを考えれば12日以降でなければ引っ越しはできないという状況であり、さらには大安だったということでちょうどよかったのである。1ヶ月以上前にこの日は確定できていた。
諸事情でアメリカ行きをキャンセルし、宮崎合宿取材中に富樫さんの訃報を目にする。目が点、とはこのことだと思った。しばし呆然。その後、お通夜は15日で告別式は16日だと発表された。偶然というか、必然というか。それもこれも運命なのだろうけど。

「富樫さんは横浜FCの株主さんでね。J2のクラブなのによく見に来てくれました」と言葉を絞り出した。
いつだったか、いつも三ツ沢で見かける富樫さんに聞いたことがあった。
「よく来られてますね」
その時の答えを、ふと思い出した。横浜FCというクラブがフリューゲルス消滅という悲劇から生まれたクラブなのは周知の事実だが、日本中の多くのサッカーファンが、クラブの立ち上げに賛同し、手をさしのべた。そして富樫さんもその中の一人だったのである。自分が関わったクラブの成長を見るのはさぞかし楽しかった事だろう。ただ、それはもうかなわない事になってしまった。そんな事を思っていたら切なくなってちょっとだけ泣いた。
帰りがけにアフリカ選手権を取材してきたという知り合いのライターに話を聞いたが、決勝戦の試合前に、選手が整列した場面で30秒くらいの何もしない空白の時間があったという。記者に対して配られたペーパーによると、取材中に亡くなった日本のジャーナリストのために黙祷を捧げる、との記述があったらしい。アフリカ的おおらかさによって、決してそれは周知徹底されていたわけではなかったと言うが、そこまでしてもらえれば富樫さんも悪い気はしなかったんじゃないかと思う。知り合いにそういう事も含めて富樫さんとの思い出を書き残すべきだと話したが、いろいろあって難しいようだ。
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以下余談。
供花者名にはそうそうたる名前が並んでいたが、その中に大分FCの職員一同と、それとは別にHさんの個人名も掲げられていた。前にも書いたが、富樫さんはまだ大分ができたての頃に深く関わってくれた方だった。大分というクラブは、経営に関しては素人に毛が生えた程度だが、人の生き死にには特別敏感な気がする。
昨年、難病を患っていた彩花ちゃんという女の子を救おう、という動きがサッカー界に広がった事があった。あの運動の事務局で広報をされていた方が、ある日の埼玉スタジアムで、ぼくを見つけるなり「大分は本当にありがたいね」と話しかけてきてくれた。話を詳しく聞くと、彩花ちゃんの一件を公表すると、どこのクラブよりも早く「協力したい」旨の連絡を入れてきたのだという。
「大分には加藤くんという前例があるからなのかな」とその方は言われていたが、もし雅也の一件が大分のそうした姿勢の背景にあるのであれば、彼の死はムダではなかった事になる。その勢いで、経営も、仕事ももっとがんばってほしいところ。現場はずいぶんと良くなってきたようだし、天国の富樫さんに佐伯で1000人くらいでサッカーやってたチームが優勝する姿を見せたいじゃない。