川崎フットボールアディクト創刊のお知らせ

ご存知の方も多いかとは思いますが、JsGOALが1月末をもって更新を終了し、新サイトの方に統合される事となりました。
Jリーグの取材情報を記事として公開する場として、本当にお世話になってきました。

JsGOALには感謝の気持ちしか無いのですが、そのJsGOALもホームゲームのみの取り扱いということで情報の半分は出せないという状況があったため前から川崎フロンターレ専用のニュースサイトを立ち上げようとは考えていました。

今回、いろんなタイミングが一致して、Webマガジンという形で、サイトを立ち上げる事になりました。声をかけていただき、クラブ側にも理解していただき了解をもらえました。掛け持ちもOKだと言われていたJsGOALの統合による運用の停止は想定外でしたが、そんな動きの中でできたのが川崎フットボールアディクトというサイトになります。

陸前高田市への訪問について

今回の支援は、車3台で行いました。
先遣隊が2台。ぼくが乗せてもらった後発組が1台という構成です。
今回の遠征に関しては、算数ドリルが主眼にありましたが、現地で子供たちが遊ぶための遊具が流された事に対する支援を兼ねており、それがボール260球の支援でした。

そんなわけで、ぼくらの車にはこれくらいのボールが積み込まれました。だいたい60球くらいですかね。


その後、でこぼこの東北道を北上し、陸前高田市の市街地へ。ここは割と山の方になるんですが、それでも川沿いに津波が遡上していたようで被害を受けていました。基礎だけになった家が続いています。


陸前高田市の中心街へと入った後、海岸線沿いを走りましたが、日の丸が掲げられていたのが印象的でした。







その後、集合場所である小友小学校の一を確認。2時間ほど時間があったため、陸前高田市に隣接してそびえる箱根山に移動しました。この山の中腹に気仙大工左官伝承館という施設の駐車場がありそこに。ここで休むのと同時に、サッカーボールに空気を入れておくことに。そうすると、この気仙大工左官伝承館に避難している方が話しかけてこられたので、事情を説明するとものすごい勢いで感謝してくれて、せんべいまでくださいました。ありがたい話ですよね。

その後時間を見て小友小学校へと移動しました。
陸前高田市立小友小学校
http://goo.gl/maps/ZBMp

学校にはすでに生徒たちが登校してきていて、笑顔で挨拶してくれます。
好奇心の強い子供はこうやってカメラを向けると笑顔でポーズを作ってくれます。


こちらは、全校生徒を前に校長先生が折れた桜の枝の話をしているところです。折れた桜の枝を見つけた校長先生が、ペットボトルで作った花瓶にその枝を挿していたところ、桜の花が咲いた。桜もこうして強く生きている。元気が出ないのは仕方ないけれども、そこで工夫してみんなも桜と同じように強く生きましょう。意識し続けていけば、無意識になる。頑張ってやっていると、頑張らずにできるようになる。というような話を宮里藍さんの話も引用しながら生徒たちに語りかけていました。

こちらは、川崎市が提供している災害用の仮設トイレです。




小友小を訪問した4月26日ごろが岩手県の桜の季節で、学校の正面の桜がちょうど満開でした。6年生を担当する柳下先生と話をしたときに教えてもらったのですが、この桜は津波によって根本から2m近く海水に浸っていたといいます。それでも咲いている桜に元気を貰っているのだそうです。そんな桜の背後に見えるのは、元々は田んぼが広がっていた場所だそうです。そこに、津波によって流されてきた瓦礫が山のように積もっています。現在も自衛隊員による撤去が進んでいるとの事ですが、日々、新たなご遺体が発見されているそうです。


6年生を担当する柳下先生は、思いがけず明るく話されていて少々面食らいました。考えてみると、ボクらが初めて見せつけられた被災地の状況に圧倒されている一方で、被災地の方々はその光景と1月半も向き合ってきているわけですよね。そりゃ何時までもクヨクヨしてられません。子供たちの元気さと、先生の明るさがうまい具合に混ざり合って、生徒たちが元気さを取り戻しつつあるのだろうと感じました。

小友小には人数分の算数ドリルとボールとを届けましたが、続いて訪れた陸前高田市立竹駒小学校に残りの分の支援物資すべてを運びました。ここから配分してもらうのだそうです。
陸前高田市立竹駒小学校
http://goo.gl/maps/25Pc

こちらの生徒たちも明るく支援物資を受け取ってくれました。ちなみにこちらの小学校の6年生は10人。全員が集まってくれて荷物の搬入を手伝ってくれ、代表の雄大くんが挨拶をしてくれました。小友小でもそうだったので、陸前高田市の小学校では挨拶を重視する教育を行っているのだろうと思います。

すべての荷物を届けた後しばし6年生担当の志田先生と話をしましたが、校庭が仮設住宅になっており2年間は校庭の大部分が使えない点。また、体育館にも支援物資が山積みになっており、体育の授業が難しいと話されていました。被災地の小学校には、そういう厳しい現実があります。

すべての荷物を届けた後、気仙沼市を経由して帰るルートを取りました。これは気仙沼市の状況です。激しく画面が揺れるのは、道路がガタガタになっているためです。東北の沿岸部がすべてこんな状況である事を考えると、復興にどれだけの時間がかかるのか、想像もつきません。だからこそ、コンスタントに支援活動を続けていく事しかないのだと思います。

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