6月30日に行われた川崎フロンターレ対ヴィッセル神戸戦の試合会場をフォーミュラ・ニッポンのレースカーが走行しました。このイベントの裏舞台を、スポナビさんでレポートしています。
川崎とF・ニッポンのありえないコラボ 等々力のトラックを疾走したフォーミュラカー
富士スピードウェイでのフォトレポート
このレポートを書く際にフォーミュラ・ニッポンの統括団体である日本レースプロモーションさんを訪ねたんですが、現社長の白井裕さんがすごい人でした。ホンダのF1エンジンの開発の責任者で、レースの現場におられたそうです。子ども心に憧れていた世界におられたとのことで驚きました。と同時に、F1を見ていた頃の思い出が蘇って来ました。あの頃のホンダはアイルトン・セナと組んでほんとに強くて、速かった。
日本レースプロモーションの現会長である中嶋悟さんは、日本人初のフルタイムF1ドライバーということで、87年からロータスに所属。アイルトン・セナと共にシーズンを戦っています。当時のホンダは、ロータスと共にウィリアムズにもエンジンを供給しており、第7戦のイギリスGPでは、ウィリアムズホンダの2台に続き、ロータスホンダのセナ、中嶋とホンダエンジンが1−2−3−4フィニッシュを飾るという圧倒的な強さを発揮しています。
セナがその強さを見せつけ始めるのが、88年にホンダエンジンとともにマクラーレンに移籍してからでした。マクラーレンのMP4/4 とホンダRA168Eのユニットはセナと、こちらも名ドライバーであるアラン・プロストによって別次元の強さを発揮し16戦中15勝。10度の1−2フィニッシュという離れ業をやってのけます。
しかし2頭態勢というのはそうそううまく行くものではなく、セナとプロストは年々その溝を深めていきます。
ちなみに89年にはドライバーズタイトルを争う両者が第15戦の日本GPのシケインで接触するという大事件が勃発しています。
1989年 F-1 GP 総集編⑯日本GP-2 投稿者 robita00
余談ですが、この89年には中嶋さんが最終戦である雨のオーストラリアGPにて、神がかった速さを発揮しファーステストラップを記録し、4位に入るというレースをやっています。ウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼを追い掛け回す中嶋さんには熱狂させられました。
90年にもマクラーレンで走ったセナは、プロストがフェラーリへと移籍したことでチーム内の足場を固め、ドライバーズタイトルを手にする事となります。
1990年のFIA総会にてセナと会った本田さんはセナに「来年もNo1のエンジンを作るよ」と話しかけています。そして、そう話す本田さんと離れたセナは目元に手を持っていくのですが涙を拭っていたのでしょうか。
91年にホンダの本田宗一郎さんが逝去され、迎えた第10戦のハンガリーGPでセナは喪章付けてレースに臨み、ポールトゥーウィンを達成。恩人を弔いました。このシーズンにもセナはドライバーズタイトルを獲得し、マクラーレンでの92年を迎えます。しかしこの92年というシーズンはマクラーレン・ホンダには非常に厳しいシーズンとなってしまいます。
ウィリアムズ・ルノーを駆るナイジェル・マンセルが別次元の強さを見せつけ、開幕から5連勝を達成。迎えた第6戦モナコGPもマンセルが強さを見せ、優勝するものと思われていました。しかし、レース終盤にドラマが起きます。タイアに異常が発生したマンセルがタイア交換のためにピットイン。その隙にセナがトップに立つと、歴史に残る戦いが始まります。(タイトルには91とありますが、92年のものです)
このテール・トゥ・ノーズの接戦はライブで見て、熱狂しましたね。この頃のドライバーには華がありました。
ホンダはこの92年をもってF1から撤退。その報告を聞いたセナは、悲しみにくれて涙します。
マクラーレンでの93年を経て、94年には念願だったウィリアムズに移籍し、そして迎えた第3戦サンマリノGPで悲劇が起きます。
wikipediaより
セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速312kmで走行中に、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km~220kmまで急減速していた)、セナが駆るマシン・FW16は大破した。車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切る映像が残っている。
セナはボローニャ大病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に、34歳で死亡した。
当時、経済がどん底状態にあったブラジルにあって、セナは国民の希望となっていました。そんな時代背景もあり、セナの死亡事故はブラジルに大きな悲しみをもたらします。その時のブラジル国内の様子をまとめたVTRがあったので紹介します。
サッカー界において、最も礼を尽くした慰霊の方法が一度スタートした試合を止めて、黙祷するという方法です。セナの逝去に際し、ブラジル国内でも試合開始直後の試合が一旦止められ、黙祷が行われています。日本でも、2002年11月21日に高円宮憲仁親王殿下が薨去された直後の試合で、この方法で黙祷が捧げられています。
91年に本田宗一郎さんが逝去され、92年をもってホンダがF1から撤退。そして94年にセナが逝去。日本経済が傾き始めた90年台序盤に、F1界の巨星が次々と表舞台から姿を消しているのがなんとも象徴的です。
ちなみに日本では、92年にJリーグがカップ戦によって開幕。93年にリーグ戦が始まっています。嗜好の対象が、遠いところのF1から身近にあるサッカーに移動したという見方も可能なのかもしれません。
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