そもそもこの講演会は、2012年7月に発生した大分県北部豪雨災害に対する支援事業として行われました。
すでに関心は薄れていますが、未だに被災地は完全には復旧しておらずこの講演会でも女子サッカー選手たちが募金を呼びかけていました。いまでも募金を募るくらいには、被害が残っているということで、ぼくも認識を新たにしましたし、災害被害とその復旧活動を啓蒙するという意味では良かったのかなと思います。
県が行なっていた募金活動自体は終了しているようですが。
ちなみに水害はこんな状態です。
ということで、本編その2です。
ここで、「なぜ夢を叶えられたのか」という話に。
W杯前の大会の帰路の最中に、東日本大震災が発災。帰国後に、実は帰宅難民になっていた。世界大会にでられるのかという状況ですらあった。女子は、アマチュアなため、練習は仕事が終わった後の、ナイターで行われていたため、電力の問題が発生していた。
だから、平日は10km走って終わり、という選手もいた。
そんな中、10km走ったら終わりだという選手がほとんどの中、20数km走っていた選手がいた。彼女は、北京五輪以降、招集していなった選手で、その理由はスタミナがなかったから。だから彼女にはスタミナを付けてくれとの話をしていたとのこと。
その後、違う選手を視察に行った試合でのパフォーマンスが良く、アメリカ遠征で活躍してくれた。
そこで、W杯にも登録メンバーのひとりとして帯同させることに。
その選手はドイツ戦で決勝ゴールを決めてくれた。
彼女はマリーゼでプレーしていたのだが、震災が発災。こんな難しい時だからこそ、再起したいとパワーアップを測り、それを工夫して実現していた。
話は変わって、なでしこジャパンは、いつも(サッカー)少女のためにと思ってサッカーをやってた。私達を目標にして欲しいと思ってほしいくらいの気持ちでやっていました。
いろいろな工夫をして、それが力になってドイツに渡った。
ーー
◯どんなチームか?
代表結成して30年。その中で世界で一番小さいチーム。軽いし低い。ロンドンでもドイツでも一番小さい。蹴って走って当たって、というサッカーで欧米が勝ち上がる中、あんな小さいチームがベスト4になったと北京では驚かれた。
当初は、攻守にアクションするサッカーを構成するときに、ぼくの考え方ということで、5のうち、4がコーチ陣。1が選手。
徹底してベースを教えた。1年半。25〜6人はベースが身についた。
新しい選手が入ってくると、我々と選手で教えた。そこから徐々に我々主導から選手主導に切り替えた。
東アジア杯で初優勝。北京五輪でベスト4。5の内、選手3、我々2。
うまく行かなくなったら選手に話をさせた。
算数は基本をまず教わる。そこから応用に行くというステップを踏む。だから選手主導に代えた。そうすることでメキメキとアベレージが高くなった。
いろんなアイディアが出てきた。パイが増えた。
サッカーの試合中の局面には瞬時にベンチからは関われない。だからこそ、選手がその状況を判断してプレーしなければならない。ベースがありながら工夫する。そうするといろんなアィディアが高まる。
集団的知性=ソーシャル、ソーシャルフットボールということになって強くなっていった。
2011年にW杯で優勝するが、2010年にはアジア競技大会で優勝。この時は関塚隆ジャパンと男女合わせて優勝。この時の内訳は、5のうち4が選手、1が我々。1の我々の部分は選手交代するだけ。試合のビデオを見て反省する。
ーー
今度はチャンピオンになるという目標設定を行った。
チャンピオンを目指していたので、グループリーグの3戦での勝とうという思いをイメージして全試合に向かった。
中1日の練習でも普通の練習をしていた。
なでしこはベースを学んだ中で応用して集団的知性を加えて戦った。主導権を握っただけではなく、苦しい試合でも勝てた。
その3につづく
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