はじまり ーーーーーーーーーーーーー 唐突な知らせ 人間、驚きに接すると眠気も吹っ飛ぶものである。 そういう情報は知っていたが、まさか自分がそのリアクションをするとは思わなかった。着信履歴に残っていた時刻は8月3日午前9時1分。前日のハードなスケジュールの影響で寝ぼけていた意識が、一瞬でクリアになった。電話の主は、冷静な口調で仲間の死を告げていた。 |
出会い はじめて会った日の事は覚えていないが、99年の大分でのホームゲームだった事は間違いない。当時まだ3000人入れば御の字だった大分のホームゲームで、声を出して太鼓を叩いて声援を送る人数は50人に満たなかった。そういう環境の中で、濃いところの人間とコンタクトをとり続けていけば、彼に行き当たるのはそう難しい事ではなかった。 開門前の列が100人に満たない市営陸上競技場の照明灯の台座の所に腰掛けて、話をしてた事を思い出す。 |
考える時間 電話の主は、雅也が東京の病院で亡くなったと教えてくれた。前日の取材が長引き、終電に乗り遅れたぼくは熊本の荒尾という町にいた。予定通り博多へ移動できていれば、電話をもらった時点で福岡空港へ向かったはずだ。 なぜならば、荒尾で電話をもらった直後から、即座に東京に帰る事を考えたからだ。 今から東京に帰れば病院で彼に会えるはず。そんな事を考えながら乗り込んだ博多への特急電車の中で、1人になったとたんに涙が出てきた。この状況で1人でいるのは精神的に厳しかった。 電話をもらった直後から考えていた、東京に一刻も早く帰ろうという思いは、博多への1時間あまりの1人の時間の間に大分へ帰るべきだと思い直すようになる。 何もかもが整ったこの状況は偶然ではないはず。kaz家からも「帰るなら帰ってこいや」という話をしてもらっており、大分へ帰る事にした。 大分でMさんと合流して知り合いに訃報を連絡し、ちょうど買おうと思っていた数珠を仏具屋で購入。その後kaz家へ。1人では精神的にやばい状況だったが、そんな事お構いなしの3歳児の相手をすることで気が紛れたのは事実である。 |
職人魂 アジアカップ準決勝を見終えたくらいのタイミングで、不在着信のT局のSくんから折り返しの電話が入る。 「もしかして、という気はしていたんですが、番組の本番前にその話を聞いてしまったら原稿を読んでいる最中に泣いてしまいそうだったので…」 と彼は話していた。声にはハリがなく、ショックの大きさが伺えた。 3日の夜に石崎さんから電話が入る。人づてに今回の件を聞いたんだそうだ。大分で2年半を過ごした石崎さんにとってもゴール裏サポーターの代表の死は大きな意味があった。 その電話で、弔電と花の手配の打ち合わせをした。その後某国営放送の元大分担当者で、現在は関東の支局に勤務するTさんから着電。直接話をするのは去年のアウェイでの鹿島戦以来だろうか。葬儀当日には、弔電が届けられていた。
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告別式 ーーーーーーーーーーーーー
ご遺族、斎場との打ち合わせの結果、告別式を終えた後、火葬場に向かう途中にビッグアイに寄ってもらえる事になっていた。彼が愛したチームのホームスタジアムの前で、彼とともに戦った仲間たちと彼を送り出せる事となった。 そんな話をしていると、ふと霊柩車の運転手さんが会話に入ってきた。 彼は一切の私心を排除した口調で 「私はゆっくりと走りますから、みなさんはどんどん追い越していってください」 と言ってくれた。 「よりよい形で死者を送り出したい」という彼の職人としての気持ちがヒシヒシと伝わってきた。雅也はいろんな立場の人たちの、心からの追悼の気持ちを受けていた。 入り口に立っていたら、某国営放送の前大分担当のNさんが姿を現す。すでに大分からは異動になっているのだが、彼にお世話になったという事でわざわざ休暇を取って来たのだという。 このタイミングで、某TV局の知り合いから電話が入る。「ビッグアイでの追悼の場面を取材したいのだが」との事だった。 本来はそういう問い合わせに答える立場にはないのだが、サポーターの気持ちを伝えたくて、詳しい情報を伝えた。取材クルーは直接ビッグアイに向かうそうだ。 同じくらいのタイミングで、同じTV局のYアナから着電。今日になってようやく雅也の死を知ったという。これから会議があってどうしても式には出席できないという内容だった。それはそれで仕方ない。連絡すれば良かったとしばし後悔。Nさんと席に着くと、すぐそばにO局のNさんが座る。神妙な顔つきだ。 |
男前 告別式で一番男前だったのは、友人のIさんだろう。友人を代表して読み上げた弔辞はすばらしかった。自分が同じ立場に立ったら確実に泣き崩れるという場面で、こみ上げてくる感情を押し殺し立派に大役を全うしていた。ただ、それでも時折漏れる涙声が、感情を揺さぶった。 式の前に見た時には平静を保っていたように見えた奥さんは、焼香の時に見ると泣き崩れていた。たぶん、自分の夫に対して尽くされる、出席者が見せた「礼」に心が揺さぶられたんだろうと思う。目の前で自分の夫のために涙を流す人を見て、冷静でいられるほど人は強くない。 告別式が終わったタイミングでサポーターが呼ばれた。ご遺族のみなさんとともに花を棺に入れさせてくれるという。ご家族の厚意に感謝しつつ石崎さんが送った花から花を一輪手向ける。 改めて彼の顔をじっくり見せてもらったが、前日ちらっと見た時とは全く違う表情だった。穏やかな顔をしているとばかり思っていたが、実際は苦しげな表情を浮かべ、口のまわりには酸素マスクの後がくっきりと残っていた。 今思い出そうとしても彼の苦しげな表情は思い出せない。苦しげな表情をしていたという事は覚えているのだが、ではどんな顔だったのかというと、穏やかな顔しか浮かんでこないのだ。もちろん無理に思い出す必要はないから、それはそれでいいと思っている。 |
ビッグアイへ 霊柩車に乗せられる時、まわりを取り囲んだ数十人のサポーターが大声でマサヤコールを送り、その声に送られて彼は斎場を後にした。 即座に数十人のサポーターは自分の車を目指して走り出した。雅也がビッグアイにつくまでに追いつかなければならない。高速で追いついた雅也の車は、運転手さんの言葉通りゆっくりと進んでいた。付き従った何台もの車は親族のものだ。そうやってビッグアイにたどり着くとすでに多くの仲間が集まっているところだった。 O局のMさんもすでにそこにいた。 簡単に言葉を交わしたが、神妙な表情が印象的だった。
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加藤雅也追悼試合 ーーーーーーーーーーーーー J1-2ndステージ第2節 横浜FMvs大分 前回のホームでの磐田戦に引き続き、2ndステージのアウェイ初戦となるこの横浜FM戦は追悼試合として位置づけられていた。ただ、この試合を取材できるとは考えていなかった。そんな中、編集部から電話が入る。 「次の試合は水戸でいい?」 特に断る理由もない。横浜国際に行けないのであればどこに行っても同じである。イヤだといっても変わる訳でもないし、そもそも指示された取材地を断った事はない。自分の希望を伝える事はあったが、それもJ2を優先しての事だったから、J1とJ2の試合日が重複しているこの節に横浜に行けないのは確定していた。 編集部は恐縮しているような口ぶりだが、水戸も行けばおもしろいので気持ちをそちらに向かって盛り上げていった。状況が突然変わった。 首都圏のライターさんが軒並みアテネに出ていて、J1を書ける人がいないとの事。横浜に行ける人はいないか、と電話が来た。表にも書いたが、水戸の対戦相手がたまたま鳥栖だった事で大どんでん返しが起きた。 奇跡的な事だと思った。奇跡ってヤツは本当にこの世に存在するんだと思った。 |
お蔵入り 横浜FMサポーターと大分のコアサポは、直接面識はないという。それでもビッグアイに掲げられた「大分遠すぎ」のダンマクに対して「けが人多すぎ」というダンマクを掲げて以来、何かやらなきゃ、という思いがあったりするという。 そんな訳で、今回大分サポーターは「横国ピッチ遠すぎ」というダンマクを用意していた。追悼試合と位置づけられたこの試合には、掲示するダンマクの数を限定する事が試合前に告げられていた。そんな訳でこのダンマクはお蔵入りに。ちなみにネット上で騒がれた「火をつけてやる」発言もあって「大分遠すぎ」ダンマクを微妙に修正した「大分すき」というダンマクが大分ゴール裏に用意されていたという。しかし担当者が事情を話すとえらい恐縮して外してくれたとの事。こういう話を聞くと、ホッとする。 |
イメージ 「もう、イメージはできあがってるんだよね。梅田が目の前でゴールを決めて、そして空を指さすんだよ。泣くね」 Mさんの言葉を聞いて、フォエが亡くなった時のカメルーン代表や、ネルソン吉村さんが亡くなられた直後のC大阪を思い出した。確かにその光景を見たいと思った。 現実は、そう甘くはなかった。 | ||
後日談 ーーーーーーーーーーーーー エピローグ 加藤家は雅也と大分トリニータとの深く強い絆を実感しこれからのホームゲームにおいて20席の客席を継続して購入。それを「雅也シート」として子供たちに提供するという。 連絡が回らずに、葬儀に出席できなかったYくんは「お盆になにかあるのであればぜひ」と話していたが、加藤家はまだ日が浅いという事でお盆の行事は行わない事になったという。ただし、自宅まで来られるのであれば、ぜひ仏壇に手を合わせてください、という話を伝えた。 Yくんは「それで十分です」と言っていた。 ビッグアイでの別れの儀式を取材していたO局が、ローカルニュースで雅也の死を関連付けて磐田戦を伝えたという。サポーターが特別な思いで試合に臨んでいた事。ビッグアイでの儀式。そして涙。 そういう様子が、ちゃんと伝えられたという。もちろん相手は磐田でやりがいのある相手だが、その試合の裏に込められた特別な思いが十分に伝わる映像だったという。心からの感謝を述べたいと思う。27日の夜。突然T局のSくんから電話が入る。溝畑さんの社長就任会見に出たという。ニュースでは伝えられなかったが、その溝畑さんの口から雅也の話が出た事を教えてくれた。ただそれを伝えるためだけに電話してくれた。 |
伝説に 雅也は悪性リンパ腫だった。大分でも治療を受けていたが、臍帯血移植を受ける事になったという。その治療のために東京に移送されて移植を待つ状態だった。 かっこつけしぃだった雅也は、Mさんに「絶対に治るからそれまでは入院の事は言わないでくれ」と話していたという。 いらんかっこつけやがって。 4月にマリノス戦を取材しに帰った時に、たまたま、病状が安定した雅也の病室を訪ねる機会があった。顔を見せると、照れくさそうな笑顔になった。ベッドに寝ている自分の姿を見られるのがイヤだったのだろう。もちろん絶対に治るという自信がその心情の根底にあるのは間違いない。 悪性リンパ腫というのは、わりと完治しやすい病気だという。そういう情報を雅也も知っていたのだろう。絶対に治るんだという言葉は、病気の性質を理解しての事だったはず。 ただ、雅也が闘った相手はどうしようもなく強かった。 酸素マスクをつけながら病気と闘っていた雅也は、適合する臍帯血が見つかり、移植手術をするまさにその当日に、息を引き取った。 梅田が絞り出すようにつぶやく言葉が忘れられない。 「もうちょっと、なにかうまくできなかったんですかね」 もちろんご遺族が何もしなかったのではないかと批判している訳ではない。それは親友を失った友の、心からの叫びだった。 「なんか、信じられないんですよね。まだ全然実感がなくて、ふっと姿を現しそうで。だから、なんとかならなかったのかなって、思うんですよね」 死者が一番怖がるのは忘れられてしまう事。だから、それくらいがちょうどいいのかもしれない。ふと気がつくと、そこにいるような、そんな感覚。 雅也はみんなの心の中で生きていく。そう、大分トリニータと、共に。 |
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