川崎フットボールアディクト創刊のお知らせ

ご存知の方も多いかとは思いますが、JsGOALが1月末をもって更新を終了し、新サイトの方に統合される事となりました。
Jリーグの取材情報を記事として公開する場として、本当にお世話になってきました。

JsGOALには感謝の気持ちしか無いのですが、そのJsGOALもホームゲームのみの取り扱いということで情報の半分は出せないという状況があったため前から川崎フロンターレ専用のニュースサイトを立ち上げようとは考えていました。

今回、いろんなタイミングが一致して、Webマガジンという形で、サイトを立ち上げる事になりました。声をかけていただき、クラブ側にも理解していただき了解をもらえました。掛け持ちもOKだと言われていたJsGOALの統合による運用の停止は想定外でしたが、そんな動きの中でできたのが川崎フットボールアディクトというサイトになります。

ビール太り。

行ってきました、U2の日本公演最終日。

4月に予定されていた公演がメンバーの親族の病気だとかで延期され、行われたのが今回のさいたまスーパーアリーナでの振り替え公演でした。

当初、11月30日と12月4日の2日間のリクエストを出してたんですが、4日のアリーナのチケットが奇跡的に取れて最初の興奮。

11月29日と30日のパフォーマンスについての評価をネットで見て、さらに興奮。

オールスタンディングのアリーナライブというとリサ・ローブがon air East(Westだったかも)でやったとき以来、というか、そもそもライブにはあまり行ってないのでホントに久しぶりでした。

開演前のさいたまスーパーアリーナは、いろんな人が集まる空間になってました。

アリーナへのゲートへの誘導を待つ間にオーストラリアから遠征してきた3人組に話しかけられ、雑談している間に中国人か韓国人ぽいアジア系の外国人がゲートを聞きに来たので、その彼にはNゲートだと教え送り出しました。

3人組は整理番号1000番台ということで、係員が日本語で番号をアナウンスする中「いまだよ」とタイミングを教えてあげて送り出し、その直後にイタリアから遠征してきたアリーナBLのチケットを持つ一眼レフ装備のカップルに1700番台の入場のタイミングを教え、その直後にゲートへ。

オーストラリア人もイタリア人も、整列入場にいたく感心してました。

「こんなのあり得ないよ」

入場後。マッタリしてたらあっという間にアリーナが満杯に。開演直前に外人がビールを持ってずんずん前に出て行ったタイミングで最初の雪崩が発生。その後は常に人の波に押されてて、さすがに人が体をぶつけ合って交錯する空間だっただけに嫌な思いもありましたね。たとえば「Sometimes You Can't Make It On Your Own」だったかな、のボノMCの時に韓国人が大声で喋りはじめて、聞こえない事があって、あれは参りました。思わず「静かに」と言ってしまいました。

その韓国人なんですが、ライブツアーの一団の一人だったらしく、その中には身長150cm台(推定)くらいしかない女の子もいて、正面の至近距離にいながらもたぶんボノの顔なんて全く見えないはずなのに必死で手を掲げて歌っている子もいて、ちょっと感動的だったりしました。

そんなこんなで激しくゆられながら高度に人に密着した状態でライブを見ていたせいか、体温が急激に上昇。おかげでビール太りの不摂生がたたって大汗をかく始末。そういえばこの前フットサルやったときもすごい汗をかいたので、ホントデブです。

そんな事はさておき、日経新聞でボノが「涙が自然に出た。生涯で最高の体験だ。一つの価値観に縛られない日本を知った」と語るほどに最高のライブになった初日ですが、3回の最後の公演日もなかなかの盛り上がりでした。

今回の公演は8年ぶりになるそうですが、思い出せばその8年前の公演は東京ドームで、アリーナとは名ばかりのはるか後方のいすに座り、彼方に見える豆粒のボノは諦めてモニターのボノで満足してました。そこから考えれば今回のライブは本当にすごかった。だってこれですよ。


スゲー感動。目の前、5メートルの所にボノがいて歌ってんの。あり得ない。エッジもアダムも、表情がわかる距離。ドラムのラリーだけはさすがに見えにくかったけど、それにしてもバンドメンバーの表情がわかる距離で演奏を見れるって、これに勝る贅沢はないでしょ。ホントよかった。ライブ始まってからも、時折起こる地殻変動に乗っかってジワジワと前に進出して5列目くらいまでにはたどり着けたし。



なんか、今年はワールドカップからずっとダラダラと飛ばし続けてきたわけですが、これで精神的に一息つけたような気がします。

よっしゃ、また頑張ろう。

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写真の時に演奏してたoneとこの演奏が始まる前にやった携帯クリスマスツリー

おめでとうございます。

by ETO Takashi 2006.12.3

あなたがいてくれたから、ここまで来れました。

どれだけの力を与えてくれたのか、わかりません。

99年。仙台。ビクつきながら初めて声をかけた時、本当にごく普通に接してくれたのを今でも覚えています。

名ばかりのサッカーライター。

そんな得体も知れない人間を、一国一城のあなたは何の疑いもなく受け入れてくれましたね。

ぼくのライターとしての初めてのインタビューはあなたでした。

大分市営陸上競技場2階の会議室で、奥さんとお子さん二人が同部屋にいる中でのインタビューは今でもちょっと懐かしいです。

それからの事は、本当に、感謝してます。

 
00年のサッカーは本当に美しいものでした。

でも、わずかに勝ち点で1点届かなかった。

03年のサッカーも美しいものでした。

でも、勝ち点1足りませんでした。

1年間かけて積み上げてきた勝ち点がリセットされる。なんて残酷なシステムなんだろうかと思いました。

ただ、腰を据えてじっくりと作り込んだチームの土台はぐらつくこともなく、チームの財産となってますね。

おもしろいサッカーを指向してきたはずなのに、その過程で基礎が作り上げられていくのはすごいとしか言いようがない。

でもさすがにそれは教えてくれませんでしたね。

でも、ちょっとでも知りたいからまた顔出します。

 
昇格を決めた瞬間。どうなるのかなと自分でもわからなかったですが、涙がこぼれ落ちるほどではなかったです。

もっとハラハラと涙を流したかったです。まだまだボクには足りないものがあるみたいです。

来季のJ1での戦い。心待ちにしてます。

初代表、高松。

by ETO Takashi 2006.11.15

○高松大樹

Q:初代表ですが、ピンクのビブスをつけていたときの指示は?

 具体的というか、外からプレスに行けみたいなね。ピンクはね。

Q:FWとしての動き方についての指示は?

 一回簡単にもらって、サイドから崩すみたいな。

Q:クサビを受けてね。できてる?

 できてるというか、サウジがそういう感じだから。チームのためにやるのは当たり前だから。

Q:2枚のポストプレーヤーに割り込んで行けそうな手応えは?

 まだちょっとしかやっていないから、まあその中でアピールはしていかないとはいけないですけどね。長い時間やれればと思います。

Q:周作くんに代表の事は聞くの?

 全然(笑)。あまり話さないですね。同じ世代が多いから。

Q:前田くんとか、啓太もそうか。ピンクビブスの13番は自分で選んだの?

 そうだったんだ。俺、80番だから。まあとにかく試合に出ないと。まずは。

Q:出たいね試合。

 そうですね。そこから、まずは。スタートなので。しっかり。

Q:監督からは何か言われたりはしないの?

 何も。特に接触ないから。個別に指示を受けたりということはないです。

Q:昼は何をしているの?

 飯食って寝てますね。あとはDVDを見て。24を持ってきました。あれはおもしろい。見た方がいいです。

Q:外出は?

 散歩くらいはいいと思うんですけどね。ホテルだけだったらきついじゃないですか。

Q:五輪時のメンバーが多いチームなんですが、A代表との違いは?

 やろうとするサッカーも違いますし、五輪といってもホント、すごい成長しているので。プレースタイルも良くなっている。いい刺激になります。

Q:特に伸びてた選手は?

 みんなじゃないですか。Jリーグで結果を出してますし、それが自信になっていると思います。

○西川周作

Q:FKで嫌な相手は?

 みんな球筋が違ってていやなんですけどね。本田は無回転だし、巻いてくるボールもすごいいいですし、アレさんもすごい巻いてくるし。ケンゴさんもすごいベッカムみたいな落ちるボールなので、それぞれの球筋は難しいです。

Q:その中でも本田くんはすごい?

 先日名古屋と戦って、本田くんのFK、2本とも浮かしてくれたんでよかったんですが、あれが枠に来てたら難しいと思っていたんで「来るな!」って思って立ってました。

Q:闘莉王のドカンは?

 あれはコースがすごいいいですし、スピードもいいですし、GKは絶対に嫌だと思います。

Q:そういえば最近FK見てないよ。

 最近、練習をしてないので。サポーターも待ってくれているんで。いつか。練習して、密かにやって。まずはチーム(大分)で。まずは自分で自信を付けないと蹴れないのでとにかく練習あるのみなので。

Q:U21については?

 すごい、見るのが楽しみにしてます。向こうは別メンバーなので、アウェイで。日本でやるのと韓国でやるのとはまた雰囲気が違うので、チャンスがあれば出たかったですが、自分はこっちに選ばれたので、選ばれた以上は100%の力でやりたいと思います。

 今日の試合をしっかり見て、次、自分が出たときにしっかり研究しておきたいです。

Q:TVでも外から見れば大分違う発見があるんじゃない?

 実際、自分が出場停止になったときに外から見たら得るものがすごく多かったので。第三者の立場は大きいです。

Q:昼間は?

 4人同世代がいるので、本田の部屋に集まってプレイステーションをしてます。WEとか。パワプロしたり。伊野波と青山と本田と。すごい暇つぶしになっています。本田の部屋に集合して。

Q:選択したチームは?

 昨日選んだのはユベントスを選ぼうとしたんですが、シエナと間違えて。そっくりで、それでさっそく間違えてあっさり負けました。ゲームはマジ弱いです。

Q:一番強いのは?

 本田。青山、伊野波くんの順で最後にボクです。持っているんですがやらないので。これからやります。

Q:ところで高松くんも入ってきて。シャムスカのおかげ?

 そうですね。マジックですね(笑)。

Q:こっちだと第3GKだけど、U21はレギュラー。向こうに行きたいという焦りは?

 自分の力がが出せればと思ってます。それを自分の経験にしていければと思っています。そんこまであまり考えずに、まだまだ先は長いので。

Q:韓国代表のU21世代はなにか思い出はあるの?

 ぼくが戦って一回も勝っていないので、僕たちの代は、アジアユースの準決勝で。それで司たちが勝ってくれたので、よかったです。

Q:決勝で負けちゃってね、泣いてたけどね。

 らしいですね。見てないんですが。TVでは見てないです。韓国の時はPK決めたので。逆に福元が外したり森重が外したりしてたんですが。

 でもホント、またチームに帰って司とできるのが楽しみです。

滝川第二、選手権へ。

11月12日。神戸ウイングスタジアムにて兵庫県高校サッカー選手権大会が行われ、滝川第二が優勝。見事選手権への出場を決めた。

盤石の試合運びでの勝利だったが、その中でも注目してみていたのが大分への入団を決めていたボランチの金崎夢生である。

金崎は、4バックの前でにらみを利かせ、ポジションをほとんど代えることなく試合を進めており、少々物足りなさを感じつつ、監督からの指示があったのかと思ってみていた。ということで、試合後に話を聞くと、ポジションについては監督からの指示ではなく、試合の流れの中で、自分で意識して考えた結果だとのこと。

つまり前線の4枚が仕事をしてくれており、無理に攻めに行く必要はなかったということ。そしてコンビを組む大塚が負傷によって交代したことも、その判断を下す一因になっていたという。

金崎を見ていて思ったのは足元の巧さ、状況判断の的確さなのだが、なによりも特筆すべきは中距離(35~55m)のパスの能力の高さ。インフロントによって繰り出される正確なパスは、確実に味方選手の足元をとらえ、リズムを紡ぎ出していく。ボランチにあの精度のパスが出せる選手がいるとチームは心強い。気になったのが線の細さで、1対1で何度kあミスをする場面があったのだが、それはプロに入ってから鍛えればいいことである。そもそもの身長も180cmと恵まれたものを持っており、みっちりと鍛えていけばおもしろい素材になりそうである。

ちなみに決勝の試合後に話を聞いたが、しっかりと受け答えのできる好青年だった。原さん、いい仕事しましたね。

金崎夢生

(最終ラインの前にいることが多かった事については)監督の指示ではありません。
1-0で勝っているときに、そのまま守り切るのか、もう一点取りに行くのかという判断の中での結果で、コンビを組む大塚も生かせればと思っていました。
高円で優勝したので、チャレンジする大会でした。追われる立場になったんですが、だからこそ結果を出したかったです。
黒田監督とは少しでも長く試合をやりたいです。

(黒田監督が1年の時からすごいメンバーがそろっていると思っていたと話していました)それは昔からあって、だから天狗になってインターハイとか新人戦とかで失敗がありました。それを繰り返さないようにしたいです。

ちょっとテスト

11月3日は晴天の特異日

惜別。

積み上がっていた本の山が消え失せ、がらんとした部屋を何気なく眺めていた。

14年前。居候していた四谷の、寝るだけのスペースしかない部屋から引っ越してきた時の思い出がよみがえってきた。とにかく東京での一人暮らしがうれしかった。6畳と3畳ほどの台所が付いていてそれなりに広い部屋だった。まだ荷物も少なくて、のびのびと使えた。

家賃も安く、大家さんもいい方で(フリーになりたてで収入が無い時期に、家賃を半年滞納しても待ってくれた。もちろん大家さんにしてみれば迷惑極まりない住人だっただろうけど)、当面引っ越すつもりはなかった。

ある日部屋を出ると大家さんが屋根を見上げて誰かと話し込んでいた。見ると屋根に穴が空いていた。補修ではなく取り壊し。引っ越しが決定した。ぼくの場合、引っ越しの条件はシンプルで本が置けるスペースとスカパー!のチューナーが取り付けられる日当たりの良さ。その条件で探してもらったが、大家さんが管理する物件にその条件を満たすものはなく、昨年中に引っ越してほしいという大家さんからの要請はズルズルと延びて、結局2月までずれ込んだのである。

そんな中で引っ越しが14日になったのは本当に偶然だった。アメリカに行く気満々だったので帰国便のことを考えれば12日以降でなければ引っ越しはできないという状況であり、さらには大安だったということでちょうどよかったのである。1ヶ月以上前にこの日は確定できていた。

諸事情でアメリカ行きをキャンセルし、宮崎合宿取材中に富樫さんの訃報を目にする。目が点、とはこのことだと思った。しばし呆然。その後、お通夜は15日で告別式は16日だと発表された。偶然というか、必然というか。それもこれも運命なのだろうけど。

たぶんその他のライターさんだったらそうは思わないのだろうが、いつも笑顔だった富樫さんを見送るその場の空気に触れたくて、斎場に足を運んだ。サポーターにも告知されたこともあって多くの方が弔問に訪れていたが、知り合いの横浜FCライターさんを見かけて話しかけたら、声を押し殺して泣いていた。

「富樫さんは横浜FCの株主さんでね。J2のクラブなのによく見に来てくれました」と言葉を絞り出した。

いつだったか、いつも三ツ沢で見かける富樫さんに聞いたことがあった。

「よく来られてますね」

その時の答えを、ふと思い出した。横浜FCというクラブがフリューゲルス消滅という悲劇から生まれたクラブなのは周知の事実だが、日本中の多くのサッカーファンが、クラブの立ち上げに賛同し、手をさしのべた。そして富樫さんもその中の一人だったのである。自分が関わったクラブの成長を見るのはさぞかし楽しかった事だろう。ただ、それはもうかなわない事になってしまった。そんな事を思っていたら切なくなってちょっとだけ泣いた。

帰りがけにアフリカ選手権を取材してきたという知り合いのライターに話を聞いたが、決勝戦の試合前に、選手が整列した場面で30秒くらいの何もしない空白の時間があったという。記者に対して配られたペーパーによると、取材中に亡くなった日本のジャーナリストのために黙祷を捧げる、との記述があったらしい。アフリカ的おおらかさによって、決してそれは周知徹底されていたわけではなかったと言うが、そこまでしてもらえれば富樫さんも悪い気はしなかったんじゃないかと思う。知り合いにそういう事も含めて富樫さんとの思い出を書き残すべきだと話したが、いろいろあって難しいようだ。

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以下余談。

供花者名にはそうそうたる名前が並んでいたが、その中に大分FCの職員一同と、それとは別にHさんの個人名も掲げられていた。前にも書いたが、富樫さんはまだ大分ができたての頃に深く関わってくれた方だった。大分というクラブは、経営に関しては素人に毛が生えた程度だが、人の生き死にには特別敏感な気がする。

昨年、難病を患っていた彩花ちゃんという女の子を救おう、という動きがサッカー界に広がった事があった。あの運動の事務局で広報をされていた方が、ある日の埼玉スタジアムで、ぼくを見つけるなり「大分は本当にありがたいね」と話しかけてきてくれた。話を詳しく聞くと、彩花ちゃんの一件を公表すると、どこのクラブよりも早く「協力したい」旨の連絡を入れてきたのだという。

「大分には加藤くんという前例があるからなのかな」とその方は言われていたが、もし雅也の一件が大分のそうした姿勢の背景にあるのであれば、彼の死はムダではなかった事になる。その勢いで、経営も、仕事ももっとがんばってほしいところ。現場はずいぶんと良くなってきたようだし、天国の富樫さんに佐伯で1000人くらいでサッカーやってたチームが優勝する姿を見せたいじゃない。

セピア色の吉田孝行。

 つい最近、ようやく引っ越し先が決まった。数ある物件の中から条件にあうものをピックアップして内見し、部屋の内部を確認しつつ騒音やら日当たりといった周辺の環境も考慮する。本当に面倒な作業だった。ただ、決まったのは部屋であり、引越しそのものはこれから始まる。業者の選定に始まり、引越し本番。そして住所変更に伴う諸手続きが控えている。引越し程度のイベントであったとしても、生活環境を変えるということの負荷は高い。そう考えると、プロサッカー選手が職場を変えることの負荷の高さは尋常ではないだろうということは容易に想像がつく。

 われらが吉田孝行が、古巣(横浜FM)への復帰を決断した。その昔、大分に来た理由を聞いたとき、こんなことを話してくれたことがあった。

「(2000年に)ファーストステージで優勝した時、試合後にチームメイトとスーツ姿で記念撮影したんですがそのときに『なにやってるんだろう』って思った」と。

 すでに試合のメンバーから外されて久しく、ステージ優勝によって現監督の残留は決定的になっていた。もちろん試合に出るための努力は重ねていた。ただ、それでも試合出場のための壁は高かった。フリューゲルスの消滅によって移籍して2年目。とにかく「試合に出たかった」のだ。

 大分へ移籍すると、瞬く間に輝きを見せた吉田だったが、そんな吉田が犬飼の、スターレンスハウスができる以前の、水道しかない練習場で練習する姿はある意味衝撃的なものだった。ただ、彼はその環境を受け入れていた。目指すべき夢があったから。

「何もないのはわかっている。ただ、ここで成績を残すことで新しい物を手に入れる喜びがある」

 そんな言葉を体現するように 端正な顔立ちには似合わない泥臭い仕事を黙々とこなした。攻撃的な役割はもちろん、危機の芽を察知して守備の局面でも激しく動き回った。だからといって驚異的なスタミナがあった、というわけでもない。ペース配分を無視し、「動けなくなったら、代えてもらう」というスタンスで、チームのために動き回った。

 94年に設立された大分は、99年のJ2加入を契機に一足飛びに周辺設備を整えていった。ビッグアイが完成し、天然芝3面に人工芝1面。そしてクラブハウスといういっぱしのクラブへと成長した。クラブの施設が公金を含めて充実することに対して一切の批判がなかったわけではない。ただ、それに対する正当性は、チームが残した成績にあった。

 02年に昇格を決めたシーズンの、吉田とアンドラジーニャとのコンビネーションは鮮烈で、あのシーズンを含めて、吉田がいたからこそ大分は今の施設を手にしたともいえる。そういう意味で、99年以降の大分にとって、吉田という選手は象徴的な存在だった。彼が流した汗は、嘘をつかなかった。

 シャムスカ監督体制下では出場停止を除いて全試合で先発出場。大分の快進撃は彼の献身的な働きによるところが大きく、また、来季の先発メンバーの座もかなりの確率で揺るぐことはなさそうだった。そんな吉田にとって移籍という選択は非常に苦しいものだった。大分で行われた移籍会見では「あえて厳しい道を選び、自分一人で決めた。家族にもサポーターにも迷惑をかけた」と明かし、大分に対する深い思いが涙になった。

 試合を求めて大分に移籍し、そして「自分の中で少しでもレベルの高いところで、代表レベルの選手と競い合ってレギュラー争いをしたいという気持ちがあり、移籍を決断しました」と横浜への移籍を説明した。

 吉田のコメントを読み返すと、吉田が求めていたのはチームの雰囲気だとか、給料だとかではないことがわかる。ただただ彼は、ビッグクラブに行きたかったのである。経営の安定したビッグクラブに行きたかったのである。その思いは、チーム消滅の話を聞いて食事をもどした繊細さ(横浜フリューゲルス時代)や、去年大分が露呈したクラブ経営のずさんさと、はっきりとリンクしている。

 正直に言って、今季の大分が目指そうとするチーム像がわからない。絶対的なストライカーを放出し、あらゆる意味で精神的支柱となっていた選手までも手放ししてしまった。今オフになされたチーム編成には大いなる疑問符をつけざるを得ない。ただ、若い選手を使いこなす手腕に長けているというシャムスカ監督にとって、今季のチーム編成は満足のいくものなのかもしれないし、監督のオーダーがあったのかもしれない。ただ、それにしても吉田の放出は、悲しい。金銭的な損得勘定を抜きにした、もっと大事な感情がそこにはあるのではないかと、そう、思ってしまう。

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 お父さんに連れられて見に行った西が丘での横浜FC戦で、吉田のゴールを見て、ずっと「すげー! すげー!」と言い続けた少年は、地元Jクラブの難関の下部組織セレクションに合格した。吉田のゴールが、一人の少年の人生に大いなる刺激を与えた。

 振り返るといろいろな場面を思い出すが、00年に加入直後の加賀見健介からの、意外性あふれるパスを受け、竹村へのラストパスを決めた仙台戦が真っ先に思い浮かんだ。もちろん原色の記憶も現れるが、セピア色になりかけた記憶の中でも吉田は躍動している。だからこそ、悲しい。この移籍が、悲しい。彼の大分サポーターへの「ありがとう。ありがとう。本当に、ありがとう」というメッセージが、とにかく悲しい。

 ただ、移籍という事実は動かしようがない事実であり、それはもう決定事項となった。吉田には新天地でも、がんばってほしい。そして大分戦では元気な姿を見せてほしい。そのときはサポーターは、愛情満載のブーイングで出迎えてほしいと思う。常々「だめなときはブーイングしてほしい」と口にしていた吉田のことだ。大分サポーターをあきらめさせつつも、うならせる最高のパフォーマンスを見せてくれるに違いない。それじゃだめだけど、1年くらいはまあ、許容範囲内かな。

 とにかく、がんばって。吉田クン。
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